思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド
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そもそも、人文知ないし人文学とは何でしょうか。明確に定義するのは実はなかなか難しいのですが、ここでは「主にテクストを解読しながら思考を組織化し、人間さらには人間の生み出したものについて研究する営み」と言い表しておきます。
ここまで技術的なテーマについて述べてきました。まとめると、①情報を多めにインプットし、②そこからその分野に固有の問題やパターンを抽出し、③思考のユニットを構築し、④より正確な言葉を探索し続ける。この一連の手続きを粘り強くやっていくことが、知的生産性を保つ基本だと思います。
簡潔に定義しましょう。僕の考えでは、テクストを読むようにして世界を読む人間、それが文芸批評家です。文芸批評家とは、世界のあらゆる事物や現象を一種のテクストとして読み解こうとする著述家です。だからこそ、音楽批評や美術批評もやれるし、知らず知らずのうちにアメリカナイズされた日本人の「政治的無意識」にも果敢に切り込めるわけです。テクストについては、すでに前章で簡単に説明しました。ここで改めてその特徴をまとめると、①不均質であること②オープン・システムであること③ネットワークであること、この三点に要約できそうです。
批評家はテクストを読むのに慣れています。そうすると、世界もだんだんとテクストのように見えてくる。なぜなら、世界はまさにテクストと同じく①異質なものの集合体であり、②オープンで未完結であり、③ものごとをネットワーク的につなげているからです。この迷宮的な世界=テクストを熟知した「専門家」はいません。そこでは、誰であれ未熟なアマチュアにすぎない。批評家はこの世界=テクストを知的なアマチュアとして生き抜く術を、多面的に示そうとする職業なのです。
そもそも、オリジナリティとは何でしょうか。フランスの詩人ポール・ヴァレリーは「剽窃家というのは、他人の養分を消化しきれなかった者のことだ」と評しながら、オリジナリティというのは「胃袋の問題でしかない」と言い切っています。文化のゼロ地点からは、何も生まれません。かといって、他人をただ引き写すだけでは、剽窃家になってしまいます。
以上の説明は、批評家の思考法にそのままつながっていきます。批評家は「作家が何を考えているか」という問いでは勝負しません。むしろ、作家がどのような考えに感染しているか、あるいは作家が何を考えずに済ませているか、このような構造的な問題にアプローチするのが批評の仕事です。
言うまでもなく、批評家は他人よりも知識がなければ務まりません。しかし、たんに物知りであるだけでは、批評を書けません。批評家には、作家を動かしている構造が見えないとダメ。そのためには、作家の意識の「へり」にあるものを発見する能力やセンスが必要です。作家自身がすでに分かっていそうなことを繰り返しても、仕方がない。そうではなく、作家の意識を超えたものをテクストから抽出すること──それが批評という企ての本質です。
派手ではないけれども地道な文化的庭仕事のための拠点がもっと増えてくれば、人文知にも明るい展望が開けてきます。批評家とはまさに「考える庭」を育てる園丁である──そのように定義したところで、本章を締めくくりましょう。
アメリカを代表する哲学者リチャード・ローティは、民主主義を哲学的に基礎づけることに、一貫して反対していました。ローティによれば、万人に対して「民主政治を追求せよ」と言えるような根拠は、実はどこにもありません。リベラルな西洋社会が「合理的」で、それ以外が「非合理的」というわけでもありません。つまり、民主主義が絶対的に優れているというのは、西洋人の思い込みだというのです。民主政治を支えているのは、せいぜいこれまで形成されてきた「共感」の力にすぎません。 これはずいぶん頼りない議論に思えるでしょう。民主政治に哲学的・合理的な根拠はないと言われれば、ひどく不安になります。しかし、ローティは読み手の心を 安堵 させる代わりに、 何も根拠がないからこそ、今すでにある民主政治への共感の輪を少しずつ広げていくしかないと考えます。フランス革命の後、民主主義の信念が広まったのは、人類に予定されたコースではなく、あくまで偶然の産物にすぎない。だからこそ、それへの共感を絶やさないプロジェクトが必要なのです。
アジアが世界の中心となりつつある今、われわれは、東アジアの歴史的な多様性をつかむための新たな「認知地図」を必要としています。むろん、その際に、負の記憶も忘れてはいけません。シベリア抑留を経て、絵画の埋葬へと到った香月泰男のような特異な画家は、改めて評価されるに値するでしょう。容易に伝達できない過去の重みも引き受けながら、世界史を織り込んだ歴史の再創造に向かうこと──それが二一世紀の東アジアを考える「急所」なのです。